室韋
室韋は古代の中国の少数民族の名称であり、紀元5世紀から10世紀にかけて主に嫩江、綽尓河、額尓古納河、黒竜江流域に生息した民族だったと考えられます。「室韋」とはモンゴル語であり、「森林の中にいる人」という意味です。「失韋」、或いは「失囲」とも呼ばれました。室韋部族が初めて漢文による文献に出たのは西暦5世紀にあたる北魏の時代でした。唐の時代から文献の中で「室韋」を「達旦」と記載されたことがありました。西暦11世紀になってから室韋についての記載が文献から消えてしまいました。前後合わせて600年間の歴史が続いたとされます。やく9世紀末からしきりに契丹族の侵略を受け一部の室韋部落が西部か南部に遷移して新しい名称を使うようになりました。11世紀から元というモンゴル帝国を建国したのが西部に遷移した室韋部落の末裔だったと言われています。東胡人の末裔とされた「室韋部族」はモンゴル族の先住民の一部にあたると言っても過言ではありません。
室韋部落は7世紀以後、人口が15万人に増えたと言われ、大体五つに地域に分かれました。
1、南室韋は斉斉哈尓から呼倫湖にかけての一帯に分布した部族であり、25の氏族からなっていました。
2、北室韋は9の遺族から構成して大興安嶺の東側にある諾敏河流域から小興安嶺の西側までの地域にに分布していました。
3、鉢室韋は大興安嶺の北部の麓にある盤古河の流域にありました。
4、深未旦室韋は大体今の根河の流域にあたる場所に生息していました。
5、大室韋は今のバイカル湖の東側にある地域に住んで今いた。
室韋部落は9世紀まで南部への遷移を始めた前、社会の形態として主に遊牧業や狩猟に従事していて漁業や農業を副業としていました。この中で比較的に農業は発展が遂げられましたが、地元では鉄が取れないから、鉄の農機具がなかったということです。また家畜を労働力にすることもできないから、農業の発展があると言っても知れていました。しかしこの時麦を蒸してお酒を醸造することが分かったとされます。牧畜業に豚や牛を飼育し、馬の飼育は少なく羊はまだいなかったのでした。馬や牛が乗り物として使われるだけではなく、結納品にも使われたと記載されます。馬やテンの毛皮は中原の王朝への貢ぎものとして納められたこともありました。
室韋は昔の遊牧民として冠婚葬祭における独特な風俗がまだ残っています。例えば結婚で言えば、男女双方が結婚に納得すれば男性が女性を盗んで帰るという珍しい習慣がありましたが、現在はほとんど近代的に変わりました。
現代の室韋と言えば思わずロシヤ族の末裔が住んでいる町のことが思い出されます。この町はロシヤ族が63﹪ほど(計1700人いるとする)占めており、中国の唯一のロシヤ族が居住する町だとして2005年に中央テレビ局に「中国の十大魅力の町」と定評されています。もちろんここもモンゴル族の発祥地としても注目を集めています。最近、ロシヤ族の生活を体験しようと町で「ロシヤ家庭旅行」ツアーを企画されています。そこでロシヤ族の家庭料理や舞踊などが楽しめることができます。ほかに「田舎体験コース」に参加すればロシヤ独特な「小木屋」(木製の建物)に泊まることができ、思う存分に地元の住民と様々な交流を楽しんでもらえます。