「李広墓」ー中国のシルクロードの旅(五)
2012年09月12日中国観光ガイド
17日の夜は天水市の金龍大酒店に泊まりました。
天水市は甘粛省の東南部にあり、甘粛省の第二の都市です。天水はそれほど大きい町ではありません。市街地は70万人しかいません。西部の町はみんな水が足りなくて、乾燥する所だと思いましたが、天水に来て始めた、ここは水も緑も豊かな町だと分かりました。
私は天水は初めてなので、天水についてのことはさっぱり分りませんでした。ガイドの説明を聞いて、いろいろ勉強になりました。天水は中国古代文化の発祥地で、伏羲と女媧の故郷です。秦の始皇帝の故郷もここだそうです。だから歴史上「秦地」ともいいました。。漢武帝から「天河注水」の伝説によて、名を得られました。西漢の時期から天水はシルクロードの必ず通らなければならない所なりました。
翌日の8:30頃、私たちは金龍大酒店を出発し、「李広墓」の見物に行きました。今まで、李広は西漢時代の有名な「飛将軍」だと分かりますが、李広の墓は天水にあることは知りませんでした。「李広墓」は市区の南郊にあります。10分間の道程しかありませんでしたが、分かりにくかったです。何回か車を停めて、地元の人に聞いて初めてわかりました。がたがたと村の中の狭い山道を登って、ようやく「李広墓」に辿りつきました。「李広墓」は文峰山の麓に有る「石馬坪村」の中にあります。素朴そうな村は綺麗に掃除されていました。入り口の所で何人かの年配の村人はしゃがんでよもやま話をしていました。私たちを見て、ちょっと冴えた顔をしました。かつて匈奴人が肝を潰させた将軍の墓はこんな寂しいところにあるとは思いませんでした。園内は静かで、観光客は私たちしかいませんでした。至る所に青青とした松柏と翠竹が植えられていて、厳かでしめやかな雰囲気に溢れています。これらを見て、粛然として、飛将軍の李広に対して尊敬な念を起こりました。続けて奥の方に歩くと、歩道の両側に石の馬が置いていました。石の馬が年月が経ったので、かなり破損されていますが、ギリギリで馬の形が見られます。さらに行くと李広を祀るホールに着きました。それは清の時代の木造の建築です。最後には李広の記念碑とお墓のところに来ました。それは李広の「衣冠塚」(死者の衣服など遺物を葬ってある墓)で、宋の時代に建てられ、清代(乾隆の時期と清の末)に再び作り直されました。記念碑は6メートルあり、塔の上にある「漢将軍李広之墓」の字は民国の大統領蒋介石が書いたものです。
司馬遷の「史記」によりますと、李広(前186 年―前119年)は隴西の成紀(現在の天水市秦州区)の生まれで、背が高くて逞しい人だそうです。また手足が長い彼は力持ちで、騎射にも得意だそうです。文帝の前元14年(紀元前166年)、匈奴に侵略され、19才の李広は兵隊に参加しました。よく戦功を立てたので、漢文帝を仕える仕衛官に抜擢されました。漢文帝とお供する時に、敵と戦うときにしろ、狩猟の時にしろいつもしっかりやりました。漢文帝は知勇兼備の李広のことが大好きで、「君は巡り合わせが悪かったね。もし高祖の時代に生まれ変わったら、万戸の侯まで封ずることに違いない」と残念そうに言いました。
李広は十九歳から兵隊に入隊し、匈奴に堺する辺境をを守った44年の間に大小の戦いを70回以上参加し、無数の戦功をてました。匈奴人は彼のことを「飛将軍」と尊称していました。唐時代の有名な詩人王昌齢が「秦時名月漢時関、万里長征人未還。但使龍城飛将在、不教胡馬度陰山。」(「出塞」)の詩を書いて、彼のことを高く評価しました。
李広は2000石の将軍として平生廉潔で、倉を建てることはこれっきりも考えたことはありませんでした。死ぬまで余分な財産はありませんでした。普段は部下を大切にし、苦楽を共にし、褒美をいただくことがあったらすべて部下に与えてしまいました。そういうわけで、部下から敬愛されて、命令をよくきいて、必死に戦いました。
元光6年、李広は不幸に待ち伏せに会って、捕虜されましたが、匈奴人を殺して、うまく逃げました。彼は処罰されて、平民になりました。諸侯に封ずる夢はとうとう潰れました。数年後、匈奴が漢の辺境に侵入し漢の兵隊を敗れました。やむを得ず漢武帝はまた匈奴人が李広を太守に任命しました。匈奴人は李広のことが怖がっているので辺境は又安定しました。
紀元前119年、李広は大将軍の衛青、霍去病と一緒に匈奴を攻撃に行きました。道を案内するガイドがいないので、砂漠を渡る時、道に迷って、落伍してしまいました。匈奴の首領の「単于」は逃げてしまいました。李広は「他人と関係なく、すべて自分がわるかったでした。」と責任を負って、自刎しました。そのことを聞いた人々は皆悲しくて泣き出しました。
中国の偉い歴史学者之司馬遷は不遇な一生を過ごした李広のことを同情し、彼のためにわざわざ列伝を書きました。故郷の人々は彼のために「衣冠墓」を作り、墓の前に彼を守る石の馬を二頭置いて、再び傷害されないように願いました。村の名前を「石馬坪」と変えました。
「李広墓」を離れた後も私は気持ちが長いことなかなか静まらななかったです。李広は十九歳から兵隊に入隊し、44年の間に匈奴人と70回も戦い、無数の戦功を立てましたが、最後には自刎せばならぬ挙句になりました。彼の不遇な一生に不平し、そして彼の惨めな運命に涙が零れました。知勇兼備の李広はなぜこんな始末になってしまったのでしょうか。一つは彼の性格によるものだとおもいます。李広は口の下手で無ぐちな人です。このような性格で李広は部下との関係はうまく行けますが、上司との間はうまく行けないことに決まりました。彼は上司のお世辞のことはうまくで言えないし、また才能が自分に及ばない上司のお世辞をいうことはしないでしょう。もう一つは漢武帝の時代は人脈社会で、平民の出身の李広は人脈関係がなかったことからだと思います。大将軍の衛青、霍去病は漢武帝と親戚の関係があり、当然朝廷に重用されるわけです。李広はいくら頑張ってもその二人の相手になるわけにはならないのも当然なことでしょう。抑えられる李広の気持ちがよく理解できます。李広の悲劇は彼の弟、息子、孫まで続きました。孫の李陵は五千人人を率いて匈奴の八万人と戦うように命じされました。とうとう負けた李陵は匈奴人に降伏しました。李氏の家族は国を上げた民衆に軽蔑されました。それから李氏の家族の輝かしい歴史が終わりました。まけた李陵は匈奴の国で貴賓の優遇を受けました。「単于」はいつも李氏の家族のことを尊敬し、娘を李陵にお嫁しました。両方を比べてどちらの方がいいかよく分かったでしょう。李広の悲劇はつまり中華民族の悲劇で、それにその悲劇は二千年以降の現在の中国までに続いていると思います。
左の石は昔から残してきた石馬で、メスで、李広が生きた時乗った 馬だとされました。右側の石の馬は現代にコピーしたものです。
これは北側(道路の左側)にもうひとつの石馬で、オスで、馬の尻の部分だおわかります。
この建物は李広を祭る行事を行うところです。
李広の銅像です。私の想像した李広の様子とちょっと違います。
記念碑の上に梅、蓮などの浮き彫りがあります。
李広を埋めた墓はもう分からなくなりました。これは李広の洋服と使ってた剣を埋めた「衣冠塚」です。高さは2メートル、周囲は26メートルです。
家の裏の隅角に綺麗に咲いた花が寂しい墓園に少し生気を添えました。
日本語はノウゼンカズラといいますが、中国語は「凌霄花」といいます。「凌霄」は天に届くほど高い意味で、この花を植えた人は天国にある李広の魂とつながる望みがあったのでしょうか。
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作者:( 「ふれあい中国」)