昔の科挙制度
2009年06月05日中国観光ガイド
6月に入ってから暑い毎日が続いています。南方の桂林は直射日光が日本より強いと思いますので、お越しの際は日傘や日焼け止めクリームなどをご用意された方がいいと思います。
さて前回、江頭洲村では官職に就く優秀な人をたくさん輩出したとご紹介しました。そこで今回は中国の科挙制度について説明したいと思います。少し長くなってしまいましたが、お付き合いください。
昔の中国では官吏登用のことを選挙と言いましたが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代に成立しました。特に君主による独裁体制が確立した宋代、皇帝は自分の思うままに使うことができる官吏を、科挙によって採用することができたのです。科挙はあくまでも選抜試験であって、それ自体には教育の意味を含くんでいません。ただ学校で養成した人材を試験によってよりすぐって、これを官吏にするのが科挙の狙いでした。
時代とともに試験に参加する人が多くなり、科挙試験は一層難しくなっていきました。科挙のための競争は、すでに子供の頃から始まっています。金持ちの家では、子供に『論語』をはじめとする四書・五経を徹底的に覚えさせました。科挙試験に参加するには、必ずどこか国立学校の生員(生徒)でなければならなかったから、まずその学校に入るための入学試験を受けなければなりません。これが学校試と呼ばれ、3年に2回の割合で行われていました。
学校試は3つの段階に分かれていて、第一が県で行われる①県試、第二が府で行われる②府試、第三が本試験ともいうべき③院試です。県試の問題は四書から出ます。県試では入学定員(4名~25名)の4倍ほどを採用しておいて、その後の2回の試験で絞り、ちょうど入学定員の数に一致させます。こうして、府試・院試、さらに今一度学力を試すための④歳試が行われ、「童生」は晴れて国立学校への入学を許可され、「生員」となるのです。そして、いよいよ官吏への関門である科挙に臨みます。
ここから科挙試となります。郷試の予備試験である⑤科試(倍率約100倍)を突破した者を「挙子」と呼びます。⑥郷試は3年に1回、旧暦の8月9日~16日にかけて、各省の首府で行われます。8日に試験場に入場し、9日に第1回の出題(四書題3、詩題1)、答案は翌日(10日)の夕刻までに答案を提出しなければなりません。8月11日に第2回の出題(五経題5問)、第3回の策題(政治評論)は15日に行われ、一週間にわたった郷試はすべての日程を終了します。15日はちょうど仲秋の名月ですので、試験から解放された挙子たちは心ゆくまで酒宴を楽しみます。
郷試の合格発表は9月5日から25日の間に行われます。郷試のあった翌年の3月、全国の挙人を集めて会試が行われます。清代には、あまりにも挙人が多くなり試験場に入りきれない恐れが出てきたので、会試の前にもう一つ⑦挙人覆試の試験を設けて志願者をふるい落しました。この⑧会試こそ科挙の本体をなすもので、唐代にはこの試験は貢挙とよばれ、これに合格すればすぐ進士になれました。
会試に合格できれば、殿試の前に行う⑨会試覆試と称する予備試験を受けることになります。⑩殿試は、皇帝自らが出題する最終試験で、今までの試験とは趣が違います。その答案も、少なくともとも1000文字以上を書かなければなりません。また、答案の書き方も形式が決まっており、これに背くことは許されません。
官職に就くまでには、このようにたくさんの試験に合格しなければならず、役人になるのも容易なことではありませんでした。しかし、現在の中国にもこの科挙制度の伝統が、資格試験を重んじる風潮として残っていると思います。中には、実力や内容が伴わない、ただ証書をもらうためだけの試験も多いです。それが多少怪しげなものでも、証書(肩書き)さえ手に入れればなんとかなる。このような考えは、そろそろ変えてゆかなくてはなりませんね。
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作者:( 「ふれあい中国」)