皇澤寺

皇澤寺は、中国の長い歴史上女性で唯一皇帝の座についた武則天を祭るために建てられたお寺で、嘉陵江の西岸にあり川を挟んで広元城と向かい合っています。唐の開元年号から建造を始め、元々は都江堰水力工事を主導した李氷を記念するために建てられ、当時は「烏奴寺」といわれていました。武則天がこの地で生まれ、後周政権を打ち立てた後に皇澤寺と改名されました。次に皇澤寺の主な宮殿と見所をご紹介します。

「二聖殿」
玄関に入ると見えてきて、殿の真ん中には唐の高宗と武則天の塑像が祭ってあり、「二聖」と言われます。また、左右には当時の有名な大臣9人の塑像が並んでいます。

「則天殿」
唐の時代から建造が始まり、「武後真容殿」や「則天聖後殿」と言われています。一般的な民間建築の寺と違い、官営によって建築された皇澤寺には大雄宝殿が無く、則天殿が主殿になり、武氏家系図が展示されています。そこにも記されている武則天の父親は唐高祖李淵と軍隊で知り合い、唐の開国功勲とされ、貞観2年(627年)に利州(広元)の総督に任命されました。武則天の出身地については3つの説がありますが、どの説においても広元で幼少時代を過ごしました。12歳の時に父親が亡くなると、同族兄弟に苛められた武則天は14歳で(637年)唐太宗に才人と認められ、「武媚娘」の名を賜りましたが、すぐに冷遇されてそのまま12年間を過ごしました。そして唐太宗(李世民)が病に伏している時、媚娘は太宗の息子である李治(高宗)と不倫をしました。その後、李治が皇帝の地位に就いたことで媚娘は才人から皇后となり、690年に67歳で皇帝となり、国号を周と改めました。705年には再び国号を唐に改め、皇帝の位を唐中宗に返上し、当年11月26日に亡くなりました。
則天殿の中心には中国国内で唯一の武則天本体の姿を基づき彫刻されたといわれる高さ1.8mの石像があり、1300年の歴史を持っています。広い首筋と落ち着いた表情、方正な品性を持ち、仏教の宝冠、宝石の首飾りを身に付け、尼の衣装を着て肩に白いシルクを羽織り、穏やか且つ威厳のある雰囲気を醸し出しています。また、武則天の石刻画もあり、皇帝の位に就いていた時の様子が描いてあります。また、広政碑と昇仙太子碑が建てられています。

「武氏家廟」
皇澤寺の門の北には鳳閣と鐘楼があり、南には写「心経」洞と武氏家廟、鼓楼があります。武氏家廟は武則天の父を祭るために作られた武氏祖先堂で、ここには武則天一家が絵画が残っています。写「心経」洞は、唐の時代に中国で有名な書道家で当時の利州長官でもあった顔真卿がこの地で「心経」を書いたことから名付けられました。中には仏像が19体並び、武氏夫婦が仏様を拝む姿を描いた絵画もあり、武氏夫婦が武則天の生まれと幸せを祈るために作った洞窟だといわれています。またの名を大仏石窟ともいい、ここにある楼は清の時代の道光年号に建造され、現在は1980年に改修されたものが残っています。洞窟は高さは7m、幅6m、奥行き3.6mで、胴内には阿弥陀仏が蓮台に立っており、体格がしっかりして表情は荘厳且つしめやかで、阿南と迦葉が左右に立っています。阿弥陀仏の前には土下座をしている人物塑像が一体あり、武則天に許しを乞う李賢の姿といわれています。
貴重な文物品として、1974年~1980年の間に広元にある宋の時代のお墓で出土した全長2m、幅0.8mの宋墓石浮彫りが挙げられ、国の重要文化財に指定されています。この浮彫り作品は計24個あり、それが全長28m、高さ4m、厚さ0.8mの壁にはめ込まれ飾られています。それぞれを四神獣図、戯劇演出図、大曲演奏図、男女武士図、孝行物語図、墓主生活図、花卉図の7種類に分けられています。その中には桑を栽培して蚕を養殖することを記載した蚕桑十二事図碑や武則天の出身地が広元であることを証明する広政碑なども展示されています。