ハミ烽燧

「烽燧」は狼煙(のろし)のことで、中国では「烽」は昼に上げる煙、「燧」は夜間に上げる火を意味し、烽燧は煙や火をあげて信号を発する通信手段とそのために設けられた建築物を示しています。また、オオカミの糞を焚いて煙を立てると真っ直ぐに上がり風にも流されにくいということから狼煙と名付けられました。

西域の長城
烽燧が新疆で最初に誕生したのは前漢時代のことです。紀元前1世紀、前漢の武帝が西域の管轄するために鳥塁に西域都護府を設置し、匈奴防衛と西域各国との交通のために10年間がかり60万人を動員して、敦煌からロプノール(羅布泊)までのシルクロード北路とシルクロード中路に沿って一定の間隔で亭障や烽燧を築きました。広大な新疆地区に築かれた漢の時代の軍事防衛施設は「西域の長城」と称され、その後も唐、清の時代まで歴代王朝によって増築、補強が重ねられ、利用されていきました。

ハミ烽燧  
ハミは新疆ウィグル自治区の東の玄関にあたり、中原地方と西域を結ぶ中継点としてシルクロード北路の重要な軍事拠点でもあり、前漢から清王朝にかけて絶えずに再築されたハミ烽燧は西域における東の防衛線として重要な役目を果たしていました。新疆の中でハミ周辺には烽燧が最も多く残っており、ハミ市に19箇所、バリコン県に28箇所、クルム県に4箇所、計51箇所が現存しています。また建造された時代ごとに様々な特徴を持っています。

「唐代の烽燧」
 ハミで現存する最古の烽燧は唐の時代に造られたもので、唐王朝は西域支配と東西通商路の安全を確保するためにハミ周辺に多くの烽燧を築き、ハミから烽燧が上がると1日半から2日ほどで都である長安まで敵の襲来を伝えることができるといわれています。現在まで年代が確認された唐代の烽燧はハミ二堡のラカソモル(拉克蘇木爾)烽燧、柳樹泉のカマブラク(下馬不拉克)烽燧、バリコンの三塘湖烽燧、クルムのコトルショナ(闊吐爾肖納)烽燧などがあり、1200年以上の長い歴史を有しています。
唐代の烽燧は外部と内部を分けて日干し煉瓦で築かれ、烽燧の中を兵舎や厩舎としても使用していました。烽燧の多くは水源のある場所に築かれ、5人から10人の兵卒を駐屯させ、耕地を開墾して自給自足を行わせていたと考えられています。その証拠に烽燧の周辺には家畜の骨や陶片、古銭などが当時の兵の生活を示すかのように散らばっています。

「清代の烽燧」
清王朝ではハミの国防上における重要性の認識がさらに高まり、唐代の烽燧を補強したうえでハミに20以上の烽燧を増築しました。現在ハミ市に残された烽燧のほとんどは清の時代のもので、特にバリコン県から西のサルジョカ(萨爾乔克)までに最も集中しており、2.5kmおきに築かれた烽燧が13箇所も続いています。
清代の烽燧の底の幅は8~10m、高さは7~9mがあり、下方は大きく上方になると次第に小さくなり、土を突き固める版築工法が採用され、強度を増すために土中50cmおきに厚さ5cmの葦や柳の小枝が敷かれています。