桂林の南渓山に咲く桜の花に感動した
2013年03月15日中国文化
筆者がかねてから桂林の南渓山公園にある「聖照桜園」について一言でも書きたいと考えていました。しかし毎回でも都合が悪くて開花にあわせて行ったことがないので、ついに書くことが出来ませんでした。この間、都合がよくて、そしてちょうど「桜園」が出来て20周年を迎えた関係もありますから、見に行くことにしました。
この「聖照桜園」は敷地面積が30ムー(1ムーは666平方メートルになる)に及び、1993年に桂林の名誉市民の称号と授けられた日本の聖道教団の祖師である岩崎照皇先生が70万元を出資して造った桜の花見のための公園だと伝えています。園内は約300本の桜の木が植えられ、染井吉野と言われる割に開花の遅い品種が最も多いとのことです。この品種は日本の独特な改良により原産種のようなものに定着して、既に日本の民間友好の使者のように中日国交が樹立した際、北京などの町に移植されたことがありました。桂林では、南渓山だけではなく西山公園や伏波山公園などにも植えられています。これらの桜も中日友好のシンボルと位置づけられ、毎年春の3月から4月までの間、もし桜の満開のニュースや知らせがあれば必ず市民たちや観光客らが詰めかけてきます。
その日は空が曇っていましたが、花見に訪れた市民や観光客が思ったより多かったです。完全には咲いていないですが、結構見頃になっていました。公園は殆ど染井吉野のピンク色に染められ、とても上品な色合いでした。また微かな清い香りもして気持ちが最高でした。園内に溢れた人々が皆、和やかな雰囲気の中に包まれており、満足そうな表情で清い香りに陶酔し、可憐な花弁に見惚れてしまいました。思う存分に鑑賞したり、写真を撮ったりして桂林の春の風物詩を満喫することができました。この花見は既に桂林の市民の春の一大行事のようになっています。南渓山公園の「桜園」はこの行事の代表的な場所となり、例年の「桜花節」などのイベントが開催されるまでに発展しています。
南渓山公園といえば、早くも1200余年前の唐代にさかのぼることができます。当時の最高長官とされた桂管観察史の李渤(西暦722~831)の手により初めて開発された公園なので、歴史的遺跡が多く残っています。記載によると李渤は左遷させられた有能な役人でも詩人でもあったと言います。2年間の桂林赴任にもかかわらず、みずから自然環境に恵まれるとする南渓山や隠山(別の西山公園にある山)を不毛の地から立派な公園に、心血を注ぎ開発したと伝えています。彼がいよいよ桂林を後にし、故郷の洛陽に帰る時、名残惜しい気持ちで「留別南渓」という有名な漢詩を詠みました。「常に嘆く春泉が去りて帰らず。我も今、此より去れば帰らぬ。別れた後、情を残す処を知らんと欲すれば、手で種ゆる岩花が次第に開(さ)く」といいました。この漢詩が南渓山の白龍洞の入り口に刻まれています。リアルに当時の李渤の気持ちを表す詩作として広く読まれています。
もし、李渤は今でも生きているとすれば南渓山に満開した桜の花にどんなに感銘し、大きな慰めとなるでしょう。おそらく詩作の中の「岩花」という言葉を「桜花」に換えるかもしれません。そして筆者も人の「爪の垢を煎じて飲み」、ある有名人の言葉を換えて次のように口ずさんでいました。「桜の花が誠に可憐であるが、平和の値が更に高い」というふうにでした。確かに美しい桜の花は他の花のように和やかな自然環境に巡り合って初めて満開できるものです。私たち人間も平和かつ安定した国際環境などに恵まれないと、このような長閑な気分で花見ができるものではないでしょう。「今昔の感に堪えない」と言いますが、花を愛する人、自然を大切にする人、そして世界の平和を守ろうとする人の心が古今、通じ合っているのではないでしょうか。こうして20年前の日本の友人は唐代の李渤の気持ちを十分理解してくれたように感じられました。南渓山公園で「桜園」を造った所以はまさにここにあるのではと筆者に少し読み取れたようです。
南渓山をバックにいよいよ満開を迎えようとする「染井吉野」(「日本晩桜」とも言われます)
筆者も思わず記念に一枚の写真を撮ってもらいました
花弁が多くて何枚も重なっています。上品な色合いですね。
「白山桜」と言われる品種も少し植えられました。日本の町にいるような錯覚です
この「白山桜」は五枚の花弁があるようですが、恐らく桜の花ならばどんな色でも人間にきれいにそして上品に映るのではないですか?
園内に市民たちが溢れていて可愛い子供を連れてきた家族もいました。
花見に喜んだ市民が周囲の視線を構わず気持ちよさそうにポーズを取っています
みんな長閑な気分で桜の満開を楽しんでいました
南渓山公園の別の場所に「日本早桜」と言われる桜も満開です。この種類の幹がちょっと高いようです。
桜の花と呼応するように「金縷梅」(まんさく)も咲き誇っています
椿も咲いています。
南渓山は唐代から李渤の手により、初めて開発された公園としてよく知られています。特に霧雨に煙っていると風情が満点ですから、昔「南渓新霽」と呼ばれ、桂林の「八景」に収録されました。
南渓山の麓から天然の湧水が流れ、昔よく飲まれたきれいな水質なので、桂林の四大名泉の一つと指定されました。
南渓山の中腹に「白龍洞」と呼ばれる鍾乳洞があり、毎日観光客を迎えています。
よく見ないと分からないかもしれないですが、唐代の李渤の「留別南渓」という漢詩です。彼は南渓山に愛着を感じて未練が残る気持ちが明らかになっています。数多くの遺跡の中でこれは最も価値のあるものと指定されています。
さすがに開発の早い公園だけあってその古い歴史や由緒を立証する遺跡が岩肌にたくさん残っています。
養生に効くとされる道教関係の漢方薬の「秘訣」が南渓山の麓に保存されています。北宋時代から「劉仙」という道士が研究したものと伝えられます。
更に仏教関係の洞窟も開発され、利用しています。言い換えれば南渓山で道教と仏教は昔からずっと仲が良かったでしょうね。
「桜園」に「愛」という文字が刻まれております。「花を愛し、環境も愛し、そして世界の平和を愛せよ」と筆者がこのように読み取れた。読者のご意見をお待ちしております。
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作者:( 「ふれあい中国」)