大自然に回帰―龍勝「孟山梯田」への見物
2013年11月04日中国観光ガイド
かしましい都会の生活は本当に厭きました。それにどんよりとした天気が長く続いたので気分も鬱陶しくなりました。週末は天気が晴れたので、友達を誘って龍勝県泗水乡の「孟山梯田」へハイキングに行きました。龍勝県には丘陵と山地が多くて、棚田は到る所に見えます。今まで私は「龍脊梯田」、「大寨梯田」、「洪門梯田」と「孟山梯田」を見物しました。 観光客が大勢訪れた「龍脊梯田」と比べて、私はやはり静かで人の手を加えていないオリジナルの「孟山梯田」の方がが良かったと思います。
朝8:00頃、私たちは桂林市から出発して、北に向かって約2時間ぐらい車に乗って、10:00ごろ龍勝県城に着きました。龍勝の町で30分ぐらいぶらぶらした後続けて、東北の方角にある泗水郷に出発しました。道が山岳道路なので、龍勝県から泗水までの12キロの道のりは1時間もかかりました。11:30頃、みんなは泗水郷の細門村からハイキングが始まりました。山の頂上まで砂利道がありますが、私たちは景色のいい田畑の石段道を歩きました。稲刈りはすでにに終わったので野良仕事をする農家があまり会いませんでした。太陽の日差しが強くなりました。山間部に籠っている靄がだんだん消えて、視界が開いて来ました。周りにに野草の匂いがむんむんしていました。みんなが視界の開いた山道を歩く時、体は秋の麗らかな日差しを浴び、目には美しい景色を納め、胸は綺麗な空気を吸い、体と心は思う存分に大自然の恩恵を楽しんでいました。仕事のストレスと生活の悩みはすべて忘れてしまいました。規模の大きい棚田、あっちこっち山に散在した瓦ぶきの木造の家、放牧された牛などが一幅の美しい「山村図」となりました。
龍勝県はヤオ族とチワン族の人の集中する所です。歴史上、長い間、原住民のヤオ族とチワン族の人は漢民族の移住者との地盤争いに負けて、とうとう山間部に引っ越ししてしまいました。交通不便なので、地元の人が閉鎖した世界で生活していました。生涯一度も外へ出たこともない人がいたそうです。そのおかげで純朴な民間風俗が残ってきました。近年、中国政府の(道路が)「村村通」の政策のおかげで、山間部から龍勝県までの道路が開通しました。交通が便利になって、農産物と木材の販売が可能となり、村人の生活レベルが上がった同時に日常の生活の様子も変わりました。若者がたくさんアルバイトに出かけて、外の文化によく影響されました。標準語がよくしゃべれるし、漢民族の服もよく着るようになり、伝統民族衣装を着る人は爺ちゃんと婆ちゃんだけです。バイクは普通の家庭の主な交通手段となりました。農業は機械もよく使うようになってきました。新しい建物も日々に増えてきます。
13:00頃孟村に着きました。孟村はのどかで十数戸しかない小さい村です。村人は全部ヤオ族の人です。村人に邪魔しないように私たちはは村の出入り口で用意してきた物を食べ、ごみも全部落ち帰りました。お昼の後、村をぶらぶらしました。去年「洪門梯田」に行った時、村の人から買った干し竹の子と地豚の燻肉が美味しかったので、また買おうと思いましたが、売っていないので残念でした。途中は村で籾を干しているお婆さんに会いました。お婆さんは年が取っていますが、黒くてつやのある髪が密生していました。」何かいい方法がありますかと」聞くと、「別にありませんが、普段は発酵したお米のとぎ汁で髪を洗うだけです。」と教えてくれました。
14:00頃村を出発して、ハイキングを続きました。14:30頂上に着きました。山の頂上から見下ろすと遠い所に桑江が見えました。桑江から20キロ下る所に中国でも有名な龍勝温泉があります。15:00から山を下り始まりました。下山は山登りより楽で、一時間半かかって山の麓に着きました。山のふもとの菜園の石垣の下で寂しく開いた彼岸花が見えました。花と葉が永久出会えないので悲しい意味が入った「彼岸花」と名付けられました。彼岸花は仏教の中に天界の花と言われています、中国の伝説に依ると彼岸花は地獄へ通う黄泉の道の三途の川の畔にに開き、人間を地獄に導いて行くそうです。それで彼岸花をまた「地獄花」と言います。不思議なことに彼岸花は普段よくお墓に成長してます。それは偶然ですか、それとも何か原因があるのかよく分りません。学生の時私は花に関するちしきはほとんどありませんでした。初めて彼岸花のことを知ったのは大学の一年の時のことでした。山口百恵の「曼珠沙華」の唄を聞く時、コピーしたテープは歌詞付いていないので、「マンジューシャカ」をどうも「饅頭坂」と聞き間違い、意味が通じなかったので、辞書を開いてから初めて曼珠沙華のことがわかりました。中国の北方では彼岸花が秋分の前後三日間正しく開きますが、南国の桂林は暖かくて咲く時間はちょっとずれています。彼岸花は不吉の花で、それに強い毒性もありますが、私は訳が分からなく好きです。
朝8:00頃、私たちは桂林市から出発して、北に向かって約2時間ぐらい車に乗って、10:00ごろ龍勝県城に着きました。龍勝の町で30分ぐらいぶらぶらした後続けて、東北の方角にある泗水郷に出発しました。道が山岳道路なので、龍勝県から泗水までの12キロの道のりは1時間もかかりました。11:30頃、みんなは泗水郷の細門村からハイキングが始まりました。山の頂上まで砂利道がありますが、私たちは景色のいい田畑の石段道を歩きました。稲刈りはすでにに終わったので野良仕事をする農家があまり会いませんでした。太陽の日差しが強くなりました。山間部に籠っている靄がだんだん消えて、視界が開いて来ました。周りにに野草の匂いがむんむんしていました。みんなが視界の開いた山道を歩く時、体は秋の麗らかな日差しを浴び、目には美しい景色を納め、胸は綺麗な空気を吸い、体と心は思う存分に大自然の恩恵を楽しんでいました。仕事のストレスと生活の悩みはすべて忘れてしまいました。規模の大きい棚田、あっちこっち山に散在した瓦ぶきの木造の家、放牧された牛などが一幅の美しい「山村図」となりました。
龍勝県はヤオ族とチワン族の人の集中する所です。歴史上、長い間、原住民のヤオ族とチワン族の人は漢民族の移住者との地盤争いに負けて、とうとう山間部に引っ越ししてしまいました。交通不便なので、地元の人が閉鎖した世界で生活していました。生涯一度も外へ出たこともない人がいたそうです。そのおかげで純朴な民間風俗が残ってきました。近年、中国政府の(道路が)「村村通」の政策のおかげで、山間部から龍勝県までの道路が開通しました。交通が便利になって、農産物と木材の販売が可能となり、村人の生活レベルが上がった同時に日常の生活の様子も変わりました。若者がたくさんアルバイトに出かけて、外の文化によく影響されました。標準語がよくしゃべれるし、漢民族の服もよく着るようになり、伝統民族衣装を着る人は爺ちゃんと婆ちゃんだけです。バイクは普通の家庭の主な交通手段となりました。農業は機械もよく使うようになってきました。新しい建物も日々に増えてきます。
13:00頃孟村に着きました。孟村はのどかで十数戸しかない小さい村です。村人は全部ヤオ族の人です。村人に邪魔しないように私たちはは村の出入り口で用意してきた物を食べ、ごみも全部落ち帰りました。お昼の後、村をぶらぶらしました。去年「洪門梯田」に行った時、村の人から買った干し竹の子と地豚の燻肉が美味しかったので、また買おうと思いましたが、売っていないので残念でした。途中は村で籾を干しているお婆さんに会いました。お婆さんは年が取っていますが、黒くてつやのある髪が密生していました。」何かいい方法がありますかと」聞くと、「別にありませんが、普段は発酵したお米のとぎ汁で髪を洗うだけです。」と教えてくれました。
14:00頃村を出発して、ハイキングを続きました。14:30頂上に着きました。山の頂上から見下ろすと遠い所に桑江が見えました。桑江から20キロ下る所に中国でも有名な龍勝温泉があります。15:00から山を下り始まりました。下山は山登りより楽で、一時間半かかって山の麓に着きました。山のふもとの菜園の石垣の下で寂しく開いた彼岸花が見えました。花と葉が永久出会えないので悲しい意味が入った「彼岸花」と名付けられました。彼岸花は仏教の中に天界の花と言われています、中国の伝説に依ると彼岸花は地獄へ通う黄泉の道の三途の川の畔にに開き、人間を地獄に導いて行くそうです。それで彼岸花をまた「地獄花」と言います。不思議なことに彼岸花は普段よくお墓に成長してます。それは偶然ですか、それとも何か原因があるのかよく分りません。学生の時私は花に関するちしきはほとんどありませんでした。初めて彼岸花のことを知ったのは大学の一年の時のことでした。山口百恵の「曼珠沙華」の唄を聞く時、コピーしたテープは歌詞付いていないので、「マンジューシャカ」をどうも「饅頭坂」と聞き間違い、意味が通じなかったので、辞書を開いてから初めて曼珠沙華のことがわかりました。中国の北方では彼岸花が秋分の前後三日間正しく開きますが、南国の桂林は暖かくて咲く時間はちょっとずれています。彼岸花は不吉の花で、それに強い毒性もありますが、私は訳が分からなく好きです。
17:00頃、そろそろ桂林へ帰る支度をしました。白い炊煙はその時村の煙突からたちのぼり、村は安らかなムードに包まれていました。帰る途中、孟村の村の景色とあの婀娜っぽく咲いた赤い「曼珠沙華」が頭に長くこびりつき、なかなか消えませんでした。
11:30頃泗水郷の細門村から孟山に登り始まりました。
泗水郷細門村の養老院でした。
周りにに野草の匂いがむんむんしていました。
「石段を登るだけで疲れましたが、石段を作った人は更に大変だったでしょう」と思って、心から階段を作る当時の人に感謝しました。
この階段を登ってから孟村に着きました。
綺麗に咲いた里芋の花でした。
子供が通過していた私たちを珍しそうに見ていました。
山の麓を流れていた川は「桑江」と言います。ここから20キロ下ると有名な龍勝「江底温泉」があります。
ヤオ族の人はよく糯米を栽培します。水田を利用して「禾花魚」と養殖し、酸魚を造ります。
山の頂上で記念写真を撮りました。
途中にはよくこのような建物が見えました。それは家を箸を融合した少数民族の建物で「風雨橋」と言います。野良仕事が疲れたのかの人がよくそこでたばこいっぷくして休憩します。にわか雨に出会った時にはここで雨避けもできます。
「曼珠沙華」って色っぽい名前ですね。婀娜っぽく咲いた「曼珠沙華」を見ると私はどうも艶めかしい女を連想してしまいました。でも彼岸花という場合は照れくさい田舎の少女のように見えてきました。妙なことですね。
11:30頃泗水郷の細門村から孟山に登り始まりました。
泗水郷細門村の養老院でした。
周りにに野草の匂いがむんむんしていました。
「石段を登るだけで疲れましたが、石段を作った人は更に大変だったでしょう」と思って、心から階段を作る当時の人に感謝しました。
この階段を登ってから孟村に着きました。
綺麗に咲いた里芋の花でした。
子供が通過していた私たちを珍しそうに見ていました。
山の麓を流れていた川は「桑江」と言います。ここから20キロ下ると有名な龍勝「江底温泉」があります。
ヤオ族の人はよく糯米を栽培します。水田を利用して「禾花魚」と養殖し、酸魚を造ります。
山の頂上で記念写真を撮りました。
途中にはよくこのような建物が見えました。それは家を箸を融合した少数民族の建物で「風雨橋」と言います。野良仕事が疲れたのかの人がよくそこでたばこいっぷくして休憩します。にわか雨に出会った時にはここで雨避けもできます。
「曼珠沙華」って色っぽい名前ですね。婀娜っぽく咲いた「曼珠沙華」を見ると私はどうも艶めかしい女を連想してしまいました。でも彼岸花という場合は照れくさい田舎の少女のように見えてきました。妙なことですね。
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作者:( 「ふれあい中国」)
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