桂林漓江の伏龍洲
2016年10月19日桂林の生活
先週、東鎮門(桂林の古い城門)を見物に行く途中、偶然にその中洲に通う道が分かって、やっと見物ができました。中洲は一本の細長い吊り橋で陸地と繋がっていました。吊り橋を歩いた時、激しく揺れて、ちょっと怖かったです。吊り橋の突き当たりの所に石碑がありました。年月が長そうで、碑文が分かりにくくて、一生懸命に読んでいた時、中洲の住民が熱心に教えてくれました。大体の意味は「馬洲では開墾されたので、放牧等が禁じられる。後、軍民など違反したものは厳しく追及する。」ということです。
中洲の住民の話によると、清の光緒年間に中洲は草が生い茂って、公と軍の馬を放牧する専用牧場として利用されたそうです。毎年の秋ごろ、広西の各地方から王城の貢院へ試験に出る秀才が何千人も集まってきました。乗ってきた馬も全部中洲に預かったので、「馬洲」だと名付けられたのです。光緒20年ごろ、役所は人を募集して、馬洲を開墾し始まりました。移民は土砂が流失されないように中洲に竹を多く植えました。痩せた砂地は農作物の栽培に合わないので,野菜の栽培をしました。馬洲で取れた大根が美味しくて、人気がありました。大根とザーサイの漬物がよく売れました。また、筏に鵜飼を乗せて、魚を捕ることも生活が改善できました。だから、馬洲はまた「鸕鹚洲」ともいいます。現在の名前は伏波山の「伏」と木龍洞の「龍」を取って、伏龍洲と名前をつけたのです。
桃源郷のような生活をしている中洲の住民がやはり悩みがありました。一つは野菜は放牧した馬にめちゃくちゃに踏まれたことです。開墾者たちが連名して役場に訴えました。開墾者の利益を守るため、馬の放牧を禁じる石碑を立てたわけです。もう一つは毎年洪水氾濫で酷い被害がされたことです。やむ得ず、ほとんどの人が相次いで伏龍洲から引越ししました。現在はわずか六軒の家しか残りません。彼らは主に川魚のレストランを経営して、祖先から住んできた土地を守っています。
畳彩山から見下ろした伏龍洲です。
石碑は清の光緒23年(1897年)に立てられ、「臨桂縣正堂示案奉巡撫部院使諭飭:馬洲墾荒種植、禁止牧放。嗣後、軍民人等、不得放縦畜牲践踏、如違査究不貸。光緒丁酉年五月初一立」と書いてあります。
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作者:(陸耀雲 「ふれあい中国」)
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