海拉尓市
海拉尓は内モンゴル族自治区の東北部に位置しており、呼倫貝尓市の政治、経済、文化の中心になっています。1440平方キロメートルに達する海拉尓は人口34万人(2012年の統計)がいて1988年に国境地帯の都市として対外開放されることになりました。海拉尓は町としての歴史が270年ほど歩き続きました。海拉尓は東部に東北経済区につながり、西にロシヤとモンゴルに隣接していて交通の便が良くて「草原の明珠」と呼ばれます。今まで鉄道や国道、航空などによる立体的交通網が完備されています。北京からモスクワまでの国際列車がここを経由しています。
海拉尓は町の北部にある海拉尓河に因んで命名されたのです。「海拉尓」とはモンゴル語であり、「山韮」という意味です。実に海拉尓の名前の由来と言えば四つあると言われます。第一として昔の海拉尓河の両側に山韮が多く生えたことからこう名付けられたわけです。第二の由来は「山から流れてきた水」という意味で命名されたことがあります。第三は、春の雪解けによる「桃花の水」という意味があり、名付けられました。第四は「黒水」という意味から来たのだそうです。歴史の記載によると海拉尓は1734年に町が営造され、当時「呼倫貝尓城」、「呼倫城」と呼ばれたことがありました。歴史上、海拉尓は引き続きロシヤや日本に占領されたことがあり、満州国時代はここが興安省の省都でした。
海拉尓は大陸的気候に属しており、降水量が350ミリメートルあり、年間平均気温がマイナス2度にとどまっています。春は風が強くて雨が少なく、蒸発が激しいです。夏が涼しく短くて降水が集中的になっています。秋ですと気温が下がるのが早くて霜が降りるのも早いです。冬季になると寒くて雪も多いです。
海拉尓を育む海拉尓河は大変悠久なる歴史があり、2、3万年前に既に古代人類の生息痕跡がありました。旧石器時代に生きていたとされた古代人類がマンモス像や犀、野牛などを狩猟の対象にした化石は多く出土されました。およそ6000~10000年前になり、細石器を使った原始人が「中石器時代」と言われた文明を作り出したのです。そして海拉尓の原始人は中原の新石器時代にあたる「哈克文化」を造り、玉石による製品が現れました。海拉尓は北方遊牧民族の揺り籠と見なされ、春秋戦国時代は彼らが歴史において「匈奴」よりも勢力が強い「東胡民族」と呼ばれたことがありました。秦、漢時代は彼らが強大な鮮卑部落をまとめて歴史の舞台に登場しました。後漢の末期、鮮卑部落が黄河流域を統一して史上初めての少数民族の政権を誕生させました。この時の海拉尓辺りの原住民が書籍で「室韋」(森林の中の人)と記載されました。西暦916年、契丹族が北方で遼という国を造り海拉尓を遼の一部に収められました。元代、海拉尓はチンギスハンに征服され、元の領土になりました。清代は朝廷が国境の警備を強化しようと海拉尓地方の各産業を充実させ大いに発展をもたらしたのでした。
海拉尓は主な観光資源が呼倫貝尓大草原、原生林の「海拉尓松」林及び旧日本軍の海拉尓軍事要塞などがあります。そして国境地帯や湖での観光コースも人気が衰えていません。海拉尓は独特な地方色豊かな経済や麗しい歴史文化、素朴な民族風情を売り物にする条件のおかげで毎年数多くの国内外の観光客を引き付けています。近年来、海拉尓は地元政府が観光業を推し進めようとして関連のインフラ整備や施設の建設に力を入れています。現在ホテルが15軒まで揃うようになり、受け入れ能力を大幅に向上させ、サービスも改善しています。町にある観光ポイントとして海拉尓のシンボルとされるチンギスハン広場、哈克遺跡博物館、再現された呼倫貝尓市古城副都統衙門(役場)、「海拉尓松」を見所にする海拉尓西山国家森林公園などが数えることができます。
海拉尓に観光に行く時、幾つかの注意事項に気を付ける必要があります。冬は寒いから防寒服や用具などを十分持参することです。屋外で写真を撮るとき、カメラを寒さから守ることが必要です。出来れば迷子にならないように羅針盤を持参したほうがいいです。昼と夜との温度差が大きいから着替えを十分用意するようにしてください。7月になると蚊が多いと予想されるから蚊除けの備品をよく準備しておきます。紫外線も強いので日よけの傘も持ったほうが賢明です。