丸都山城
現在の集安市街の西を流れる通溝河に沿って2.5kmほど上流にさかのぼると、丸都山城の南門跡に達する。丸都山城は、平地の「国内城」に対して、緊急避難を目的として築かれた山城である.
緩やかなスロープの山道の登り口に、「丸都山城」の標識があった。南門跡は谷部がもっともさがったところにあり、城壁がそこから東西に走り、東西端でそれぞれ急傾斜して稜線にとりつき、その後は稜線上を北に走る。周囲を囲む城壁の総延長は約7.8キロ、面積にして約290ヘクタールという不整形の巨大な山城である.
高句麗の第11代東川王(とうせんおう、在位227 - 248)は魏と対立し、246年年8月には毋丘倹に攻め入られている。国都である丸都城を陥落し、東川王は南沃且まで逃れたとされている。卑弥呼が魏に使者を派遣して8年後のことだ。丸都山城は緊急避難の城として機能しなかったのだろうか。