モール(莫尓)仏塔

モール(莫尓)仏塔はカシュガル市から東に20km離れた古瑪塔格山にあります。モール仏塔は2つの塔からなり、いずれもかつて仏教を信仰していた伽藍の境内に築かれた塔として機能されていました。唐の時代に造られたとされ、「モール」とはウイグル語で「煙突」という意味になります。地元では、この2つの塔が古代に使用された狼煙台だったと勘違いされたことから、この名で呼ばれるようになりました。実際は、この地が西域の疏勒国の都だったころに造られた仏教関係の伽藍遺跡でした。

モール仏塔は双方とも高台に建造され、東南部に位置している塔は高さ8.4m、台座の長さは12.3mあります。インドから仏教が伝来するとともに、もともとお釈迦様の仏舎利を埋めた卒塔婆も導入されてきましたが、中国での仏教文化の本土化につれて、台座の形状は偶数である4、6、8角形に変化していき、この塔の台座の形状は正方形になっています。塔の主要部分はわらと土の混合物で円状に製造され、上部はカバーボール様式となっており、塔内は空っぽになっています。もう一方の塔は高さ7m、台座の長さは25m、幅は23.6mあります。塔の上部は平らで、中心の正面と側面にはそれぞれ仏像を収めた仏壇が刻まれた跡が残っています。また、この2つの塔の周囲には伽藍として使用された建築の遺跡が見つかっていますが、後の戦火に巻き込まれて消失したと分析されています。考古学者の調査によると、いずれも唐の時代に造られたものであるとされています。

 残された記録によると、仏教の信仰が盛んに行われていた当時の疏勒国では、モール仏塔の中にお釈迦様の遺物が収められていたようです。そして、モール仏塔を始めとして建立された立派な大伽藍を訪れた名僧の名も記載されています。モール仏塔が伽藍の中心的建築物と見なされ、高台には仏殿、鐘楼、古楼などが配置されたのではないかと考えられています。現在では、かつての面影が一切残っておらず、土台だけが残され、時の流れの切なさを語りかけてきます。また、644年に、唐の三蔵法師がインドから西安に戻る途中で、この疏勒国に立ち寄ったことがありました。『大唐西域記』には当時の疏勒国における仏教信仰の盛況さが記されており、「仏法を篤信し、福利に勤める。伽藍が数百軒もあり、僧人万人余りいる」と称されています。このように当時の西域では疏勒国が仏教信奉の中心的存在であったことが伺うことができます。

690年には女性皇帝である武則天が全国的に大規模な仏寺建立を呼びかけたことから、各地で伽藍の工事が実施されました。疏勒国でも名高い疏勒大雲仏寺を建立する工事が展開されていたそうです。僧坊や仏堂などの遺跡に当たる部分がすべて真っ白な石膏で装飾されたほど豪華な伽藍だったという点から、モール仏塔があるこの地は疏勒大雲仏寺の遺跡だったのではないかと考えられています。この疏勒大雲仏寺は10世紀中期頃までは保存されていましたが、イスラム教がカシュガル地方に正式に伝来した後、戦火に巻き込まれて焼失したとされています。モール仏塔は異教徒間における波瀾万丈の時を過ごし、危機存亡にかかわる歴史を演じる舞台となってきました。周囲は見渡す限りの砂地が広がり、その長い歴史とともにどこか儚さを感じさせる観光スポットになっています。