楊貴妃墓

  傾国の名花楊貴妃の墓は西安から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にある。彼女は718年に生まれ、756年に亡くなった。 745年に唐の玄宗皇帝の貴妃となり、玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒や歌舞や貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかってしまった。このため、国内情勢が次第に悪化し、政治は窮境に陥った。 755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、所謂「安史の乱」が起こる。楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けた途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きた。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊氏一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求した。時に楊貴妃は38才、子供ももたずに死んだ彼女の一生は、まさに「花の命は短くて苦しきことのみおおかりき」という詩の通りだった。 昔、楊貴妃の墓は土盛りだったが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせたという。後にその白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まり、大勢の若い女性がその白粉を欲しがり墓に集まった。このため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまったという。 現在の墓は半球状のレンガで覆われており、墓前には「楊貴妃之墓」の碑がたてられている。楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を贈った。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められており、現在、墓地の辺りには門楼が建ち、亭、堂が復元されている。