七月七日に、父の人生の旅がとうとう終点に着き、永遠にこの世を離れてしまいました。その日の朝七時半ごろ、弟は突然電話をかけてきて、「先ほど父さんは行ってしまいました」と悲しくて、沈んだ語調で話しました。それを聞いた私は頭がぼうとなって、家をあちこち歩いて、何をしていいか分からなくなりました。娘は「先ほど一羽の黒色の大き鳥が窓台に飛んできて、なかなか逃げなくて、おかしかったです。」と教えました。「それはお爺さんが鳥に化けて雨やん(娘の名)を会いに来たんです。爺ちゃんがいつも雨ちゃんに会いたいと言ったからです。」と私はそう言いました。
貴港市の家に帰って、冷たくなった父の遺体を見て、父の不遇な一生を思うと悲しくて、涙がぽろぽろと流れ出しました。
父は十何歳の時に不幸に父親が亡くなられてしまいました。年配の同族の人の話によるとお爺さんは過労死だったそうです。お爺さんはなくなる前に肺結核にかかっていながらも家族の生計のために無理して蓮根を掘りに行って、とうとう蓮池に倒れてしまいました(蓮根掘りは重労働ですが、収入が少しいいし、お金もすぐもらえるのです)。父は長男で、下に妹が一人と弟が二人います。お婆さんは当時私の一番下のおじさんを生んだばかりで仕事はできませんでした(下の叔父さんはお爺さんが亡くなった後生まれたのです)。中国では当時国内戦争が起っていました。家族のために父は何回かお金持ちさんの子弟の代わりに兵に徴発されました。家族のことが気にかかって、逃げようとするときに班長に気付かれてしまって、銃床で散々にやっつけられ、歯が何本も撃ち落とされました。お気の毒で、それから父はどんな美味しい物でもうまく食べられなくなりました。
私が四五歳の時、父が肝臓の病気でもう少しで死んでしました。幸いなことで助かりましたが、毎日いろんな薬を飲まなければなりませんでした。長期間薬を飲んだので、半分のお医者さんになりました。天文数字の借金は私が高校に入ってから初めて返済しました。父はそれからめったに病気にかかりませんでした。
長い間の貧しい生活のせいか、父は普段いつも厳しそうな顔がしていて、笑顔がめったに見られませんでした。家族のメンバーは倹約で、新しい洋服はめったに着ませんでした。父は気分がいい時、たまに気前のいいことをしたこともあります。それは子供の私たちにとって、一番うれしくて、幸せな思い出でした。私が高校を卒業した年に大学の受験勉強に落第しました。再受験のことに諦めた私は思い掛けなく父から再受験するように励ましてもらいました。父のおかげで大学に入った私は人生がよく変わりました。父のご恩は私は一生忘れられません。
弟から父が亡くなる前のことを聞きました。退院して、家に帰った父はほとんどの時間は呆けた状態です。大小便も失禁していました。赤ちゃんのように地面を這う時もあります。ベッドまで抱かれたら人を罵りました。姉も弟も父のために体を拭いてあげる時にいきなり一発されたことがあります。母と弟はそれは理解できませんでした。いよいよこの世を離れ、家族の人と永遠に別れることを思う父は名残惜しくて辛い気持ちが胸いっぱいだったでしょう。みんなの注目と関心を寄せるために無意識にいろんな不思議なことをしたのではないかと私はそう思います。頭がはっきりした時、父は自分の面倒を見ていた弟の顔を優しく触りながら、「いろいろ迷惑をかけて、悪かったね。父は早く死にたいよ。でもなかなか死ねないでしようがない。神様、早く死なせて下さい。死んだら、みんなに迷惑を掛けなくなるよ。」と話しました。父と最後に電話をしたのは先々週の日曜日でした。父は頭がすこしはっきりしていませんでしたが、「孫娘に会いたいから連れて来い」と話なしました。「期末テストが終わったららいしゅうまたかえります。」と言いますと、「父さんをごまかさないでね。孫娘にお金を渡しておいたら、安心できます。」と言いました。結局、父は私たちが帰るまで待てませんでした。父は亡くなる前に必ず私たちに会いたかったでしょう。それを思うと「お父さん、許して下さい」と泣きだしました。神様はこんな形で親不孝な私を処罰するのはあまりにも残酷すぎます。
父は自分が間もなくこの世を離れることが分ったようで、いろんなことをしておきました。まず「孫も孫娘も将来結婚する時には祝儀を一人に一万元出す」と遺言を言い残しました(結婚した孫に既にあげた)。それからみんなと連絡するための携帯用電話を母にプレゼントする時に「お前はわしに嫁入りして60年以来、何も貰わなかった。苦労したね。今日は記念で携帯用電話を一本上げよう」と言いました。平日父とよく喧嘩した母はそれを聞いてめちゃくちゃに泣きました。父が亡くなる前の夜、自ら体を拭くように要求しました。七月七日の朝七時、父の部屋に入って、朝の挨拶をする母に会うと、父は「今日は誰も見舞いする人がいないね。」と聞きました。母は 「まだ早いからです。もう少したつとみんながきますよ」と言って、朝食を買いに行きました。わずか数分間たって戻ると、父は永遠的に私たちと別れました。父はたいした病気はなく、あと何年間生きられるはずです。しかし、毎日何も食べずに、ただスープか重湯を飲むだけで、父は体が衰弱してとうとう亡くなりました。父はたぶん私たちに迷惑をかけないように死ぬ覚悟でそうしたかもしれません。そ思うと、心が痛くて、涙が目に溢れて、キーボードがはっきり見えなくなって、字を打つこともできなくなりました。安らかに眠りたまえ、我が敬愛なる父上!
貴港市は現在建築ラッシュで、町には激しい変化がしました。昔の繁華街だった所は「西江」の護岸工事をするため壊されることになっています。そこには私の頭に残す故郷の最後の景色があり、父にたいする思い出に繋がっています。それが消える前にちゃんと撮っておきます。携帯用電話で撮ったので画質がよくありません。ご了承ください。
貴港市の一番広かった大通り「和平路」にある蓮池です。子供の頃、家はこの池の畔にあり、いろいろいい思い出がここに残りました。蓮根と砂糖は貴港市の名産です。お爺さんはこの池で蓮根を掘ったかとがあるかもしれません。
蓮池の向こうにある昔の建物は壊され、新しいビルを建てていました。
私も子供の頃、家の手伝いをよくしました。
貴港市の女の人は糸で顔の産毛を抜く風習があります。
家の近くのよく遊んでたグラウンドは現在団地になりました。
かつての繁華街は壊されて高いビルが建てられました。父はここで私に時計を買ったことがあります。
父はここの百貨店ででテトロンのワイシャツを買ってくれたことがあります。
ここでメガネとペンを買ったことがあります。
貴港市の一番良かった写真屋さんは今ボロボロになっています。
リバービューの家は今住んでいる人は一人もいません。
若者はみんな新しいエリアに引っ越しに行きました。ここに住んでいる人は老人が多いです。景色は余計に寂しく見えました。
旅から戻って、陸さんの父上がお亡くなりになったことを知りました。「心から哀悼の意を表します」・・・苦労を重ねた人生の中にあっても、家族への愛情が強い人でしたね。そんなお父さんのもとに生まれた子供たちは幸せですね。 陸さん、がんばってくださいね。
「野良猫」さん、こんにちは。7月16日から出張に出たので、返事が遅くなって大変失礼しました。大勢の皆さんからいろいろ慰めていただき、感激しました。感謝の言葉も言えません。「野良猫」さんの仰たとおり、頑張って、皆さんのご好意を答えるしかできません。ほんとにありがとうございました。
陸さんをこんな時どう慰めればいいか、分かりません。だだ父母にも亡くなられた僕は陸さん今の気持ちをよく理解します。 10年前、三ヶ月病院に父の看病した時のことを目の前に浮かんできました。夜中、暗い病室に父のベットのそばにかけた僕は父の手を握り、その温もりを感じ、いろいろ幼い頃この手に引かれて雑貨店にいって何回も何回も美味しい飴を買ってくれたことを思い出し、涙ポロボロでした。飴はもういりません、この温もりだけはもう少し私に貸してくださいとお神様につぐつぐ願いました。
「江樹」様、コメントをいただきどうもありがとうございました。同じ体験があって、そして同じ感動をしたのです。「江樹」様のコメントを読んでまた涙が流れだしました。そのような父を見本として、お互いにいきていきて行くのは父に対する何よりのいい記念だと思います。
大切なお父さんを亡くされ、お悔やみ申し上げます。お父さんがいなくなった頃に思い出の場所へ立ち寄るのが余計に悲しくなるんでしょうね。陸さんの文章を読んでいたら、私も思わず涙が頬を流れてきました。
「空」様、わざわざ弔問をいただきありがとうございました。木曜日から土曜日まで故郷へ帰ったので、ご返事は遅くなって、申し訳ございませんでした。私の気持ちをよく理解していただいた「空」様は必ずお父さんにいろいろいい思い出があるに違いないと思います。お互いに父親のご恩を忘れませんよう。
陆先生 惊悉伯父大人不幸去世,我非常哀痛。在这悲痛的时刻,你内心的痛苦和忧伤,我是完全可以理解的。他老人家为了把你们兄弟姊妹抚养成人,历尽辛劳,呕心沥血,更是令人感动。不料就在你们长大成人,上层上取得成就之际,他老人家却过早地离开你们。怎不令人黯然泪下。此时此刻,纵有千万语也难以安慰您的痛苦。但是,作为您的日本朋友,诚挚地望您节哀,多多珍重,请代向伯父大人灵前致哀。貴港市の建設ラッシュには驚きです。旧態以前の老街にはお年寄りしか残りませんね。この老街で、多分お父さんは、陸さんの高校入学時に、「時計」と「テトロンのワイシャツ」を買い与えたのでしょう。高校に上がり良い成績を残してもらいたい一心で、苦労して貯めたお金で息子の入学祝いとして、今までない大盤振る舞いをされたのでしょう。実は、私もそのような経験をもっています。中学までは何も買ってもらったことがないのに、高校の入学式の帰りに、大城市の専門店で「精工の時計」、「ウェブスターの英英辞典」、「革靴」、「皮鞄」、「カシミヤの学生服」、次々とお店を回り、私に買い与えてくれました。全部で当時の金で6万か、7万にはなったでしょう。(当時の大卒初任給1万円だった)。最後に、高級うどん屋に連れて行き、2杯もおいしい「うどん」を喰わしてくれた。父親とは、そのようなものですね。陸さんの、おとうさんと、私の父は本当に生き方が似ていてびっくりです。倹約家のモデルみたいな父親でしたが。これから、そのような父を見本として、これからもお互い生きていきましょうか。
大事なお父さんを亡くされ、お悔やみ申し上げます。 小さな時からいろいろ苦労されて生きて見えたんですね あの世では、幸せに過ごしていただきたいですね。
木曜日から土曜日まで再び故郷へ帰りました。コメントのご返事は遅くなって、申し訳ございませんでした。いまい様からわざわざ弔問をいただき感激します。本当にありがとうございました。
陸さんの父親になくなられた悲しい気持ちがよく理解できます。私も同感でたまらないです。確かに貧しい時代の中、幼くそして何も知らない自分を立派な大学生まで育ててくれた父親の苦労というのは並々ならぬもので、最後のわが父の顔が見えることができなくて、息子としての陸さんがどんなに悔やんでいるだろうね。母親の愛が偉大なものですが、父親の愛も永遠に息子である私たちの心の中に不朽な宝物として銘じておきます。
「霞客」様、わざわざコメントいただき、感激しました。木曜日から土曜日まで再び故郷へ帰りました。コメントのご返事は遅くなり、申し訳ございませんでした。親孝行は中国の五千年の文化と伝統の美徳で、文革のせいで親不孝の人が増えてきました。中央テレビで毎日それを宣伝していても、もはや遅かったのではないでしょうか。中華民族の悲劇です。