古桟道
中国の史書には「明修桟道、暗渡陳倉」という表記があります。言い伝えでは漢の時代、皇帝・劉邦が漢中を手中に治めた後、大将・韓信の命により修築した桟道は断崖絶壁を貫き、戦争時には攻守において重要な交通の要道となりました。古桟道は地形が険しい上に工事の規模が大きく、中国古代の交通要衝の歴史において重要な位置にあります。その桟道の90%が漢中に属しています。主要なスポットは以下の通りです。
「子午道」 子午谷とも言い、北は長安県に位置して「子口」、南は洋県に位置して「午口」と呼ばれ、全長は420kmです。劉邦が巴蜀地区の漢王に退けられた際、子午道を通じて漢中へ戻り、この桟道が焼いていきました。また、子午道の道中には東漢時代の製紙法を発明した蔡倫の墓と西漢時代の西域へ行った使節団の張鶱の墓があります。
「褒斜道」 褒斜道の南は漢中北部の褒谷にあり、北は眉県の斜谷にあり、全長は470kmです。桟道の南は「小石門」、北は「大石門」と呼ばれています。間には全長16.3m、幅4.2m、高さ3.75mの世界最古のトンネルがあります。当時、鉄器や火薬などを使用せず造られたと考えられています。また、桟道の壁には漢時代以降多くの著名な官吏や文学者が詩と名前を書きつけており、「石門石刻」と称されています。しかし、1971年にこの地にダムが建設され、17万ムーもの石刻が漢中博物館に移され、保管されています。
「金牛道」 「蜀桟」とも言われ、古代にける四川と陝西間の交通幹線でした。北は陝西の南部、南は四川の巴中大剣の関口に位置します。この道の広元から陝西の南部にかけては非常に道が険しく、唐の時代の詩人・李白は「蜀道が険しく、天に登るよりさらに困難だ」という言葉を遺しています。
他にも「米倉道」、「党駱道」、「陳倉道」、「連雲道」などがあります。