麗江古城

麗江古城は麗江のレトロな旧市街で街の形が大きな硯に似ていることから「大硯鎮」とも称され、雲南省北西部の横断山脈と雲南中部高原の間の標高2400mの周囲を丘に囲まれた高原に位置しています。街の北西部には雲南を代表する有名な観光スポットである万年雪を頂く玉龍雪山がそびえています。昔から麗江古城は雲南省とチベットを結ぶ重要な商業の集散地として栄えてきました。

麗江古城の敷地面積は3.8?、住宅6200戸に25000人の人々が居住しており、その人口の67%がナシ族で構成されています。また人口の約30%の住民が金銀細工、毛皮加工、醸造などの手工業と商業に従事しています。
麗江古城の歴史を辿るとナシ族と深く結びついています。ナシ族の祖先は青海チベット高原?羌族の一派で、8世紀ごろ南下し麗江に住み着くようになったと考えられています。ナシ族は当時から象形文字のトンパ文字とナシ古楽、舞踊で民族の文化を伝え、自然崇拝のトンパ教を信仰していました。麗江古城は雲南各地の民族文化やチベットの影響を受け、13世紀の宋の末期から元の初期に独自の景観として建造され、明の時代になってから現在見られているような規模の街並みが完成しました。1996年に起きた地震でその街並みは大きな被害を受け南宋時代の木氏土司による城が崩壊しましたが、多くの木造建築は崩壊することがありませんでした。そのため従来の木造建物はそのまま残して、かつてと変わらない美しい街並みへと修復しました。そして1997年にこの地で発展した独特の伝統文化と風光明媚な自然環境の重要性が認められ、ユネスコ世界遺産に登録されました。

麗江の民家
街の建物のほとんどは二階建てで瓦葺きの木造建物で「三坊一照壁」や「四合五天井」と呼ばれる建築構造が多く、窓格子?格子戸に繊細な彫刻が施されています。また茶馬古道の要所とされていたので民家の多くは商店としての機能も持っており、街路の両脇の数多くの商店が立ち並んでいます。

麗江の四方街
表通りの東大街を南へ進むと古城の中心地として四方街があり、大きな大水車が麗江古城のシンボルとなり、多くの人々が往来する中心広場的存在となっています。ここから石畳みの道が放射状にのび、路地に敷き詰められた石畳は麗江で生産した五花石が使用されています。四方街は4000㎡の広さを誇る広場で、毎日、ナシ族のおばさんたちがここでナシ舞踊を披露し、周りはお店やカフェが軒を連ねて並んでいるので、ショッピングとして絶好のポイントにもなっています。そして、広大な古城の中で観光客やツアーの集合場所としても活用されています。

麗江の水路
古城全体に張り巡らされた水路は玉龍雪山の雪解け水が流れています。その雪解け水は、まず古城の北にある黒龍潭に湧き出て、4ヘクタールに蓄積された一年中豊富な水を麗江の人々は昔から黒龍潭の水を中路、西路、東路の水路で市内に引き入れ、さらに多くの水路に分け、立派な水路を造り上げています。水路に沿って、街路が敷かれ民家が立ち並び。四方街を流れる西路には水門があり、水路の水を堰き止めて溢れた水は街路へ流れ出るので、麗江古城の石畳みの道は雨季には泥がなく乾季には砂埃が少ないきれいな街路が維持され、東のベニスと称されています。

麗江の三眼井
自然を崇拝する麗江のナシ族は水と共に生き、水を重要な生活資源として活用しています。麗江古城の水路には「三眼井」と呼ばれる井戸があり、上流からの水を飲料用、炊事用、洗濯用の三つの貯水漕に分けられています。美しい水を保つ為に午前10時前は水路で洗濯をしないことが麗江古城のマナーとなっています。

麗江の橋
麗江古城は橋が多いことでも有名で、石のアーチ橋、石板の橋、木板の橋など354箇所に架かっているとされており、敷地面積から計算すると1?に93ほどの橋が設置されていることになります。また、アーチ橋はほとんどが明や清の時代に建造されたものです。四方街と五一街の間にある大石橋が最も有名で、明の時代、麗江の土司木氏により造られ、長さは10m、幅4mの石畳のアーチ橋で水面に玉龍雪山の影が映ることから映雪橋と言われます。