柳侯祠

柳州市柳侯公園の羅池の西側にあり、羅池廟と呼ばれており、唐の時代の有名な政治家?柳宗元を称え建設され、現在では「柳侯祠」と改名されました。これまで何度も修復?増築され、現在あるのは清の時代に建て直されたもので、煉瓦と木から構成されています。中は前殿?中殿?後殿の3つに分けられており、総面積は約2000㎡です。
玄関には有名な現代文学家?郭沫若が書いた「柳侯祠」の額が掛けてあり、両脇には清の時代後期の永州知府?楊翰に書かれた詩人?韓癒の詩文の対聯があります。前殿と中殿の中間には宋の時代から現在までの石彫が20か所に見られ、そのうち最も人目を引くのが「茘子碑」という二枚の石刻です。右にあるのは南宋時代(1217年)に彫られた原物で、左にあるのは清時代の模倣作品です。また、元の時代に書かれた柳宗元の二枚の肖像もあります。中殿には石井戸が二つあります。これは、かつて柳宗元は柳州で水源を探し井戸を掘って民の飲用水として活用したことを記念して作られた井戸です。後殿は正殿となっており、三色の柳宗元陶塑像が立っております。頭には褐色の頭巾を被り、唐の時代の官服を着て、筆を片手に本を読んでいる姿が表現されています。また、三部将の塑像もあり、正殿の真ん中には龍城石刻の剣銘碑の残碑も陳列されております。
柳侯祠の文物品には各時代の石碑彫刻が数多くあり、宋の時代から2000年までの45枚の石碑が収蔵されています。また、郭沫若や楊成武将軍、江沢民主席の題辞を目にすることもできます

柳宗元の経歴
字は子厚(773年~819年)、出身は河東(今の山西省永済市)、俗称は「柳河東」や「河東先生」、唐の時代の有名な文化人、思想家、政治家で、左遷され柳州に来たことから「柳柳州」とも呼ばれています。793年の科挙試験で進士になり、秘書省の官吏を担当しました。韓癒と共に古文を提唱する文体改革運動を参加し、唐宋時代の八大文化人の一人になりました。805年に政治革新運動を参加し尚書省の礼部長官を担当し、革新運動の失敗により永州司馬に左遷されました。さらに815年には柳州の長官に左遷され、その4年後に病気で亡くなりました。柳州での4年間で、文化教育を起こし、奴隷の釈放、城壁の修復を行い、その功績から地元の民からも尊敬され、亡くなってから3年目に地元の人々が柳宗元を称え羅池にお寺を建立しました。宋の時代には文恵侯に封じられ、羅池廟は1104年には柳侯祠と改名されました。各年代の文人墨客がこの地を訪れ多くの詩文や対聯を書き、その数は現在183ヵ所にのぼります。

次に柳侯祠の見どころいくつかをご紹介いたします。
1.「茘子碑」は、友人である亡き柳宗元を称え韓癒が詠った詩をもとに、宋の時代の有名な書道家?蘇軾が石に書き残した書です。この三人は中華民族の歴史上でも有名な人物で、柳宗元、韓癒の詩、蘇軾の書を称え「三絶碑」と呼ばれるようになりました。石碑の彫刻技術は蘇軾の書道作品と同じく自由奔放な風格が溢れ、柳侯祠の宝と讃えられています。

2.柳宗元衣冠塚は、819年に亡くなった柳宗元を祀った場所で翌年には長安に埋葬されました。柳州で御棺が置かれた場所として衣冠塚が作られました。

3.柑香亭は、かつて柳宗元が柳州の地で蜜柑を栽培し詩文にも書き残されていることから、そのことを称賛し後世の人がその亭を築きました。