大沽口砲台
天津市内から東南へ約60キロ、塘沽区を流れる海河の河口部にあたる大沽口に築かれた砲台跡で、天津の海防の要所として知られた。
すでに明代からここに軍が駐屯していたが、清の朝廷は海防を強化し西洋列強の侵略に備えるため、1858年(清の咸豊8年)に六つの大砲台を建設し大砲を配備した。そのうち三つは南岸に、二つは北岸に築かれ、それぞれ“威”、“震”、“海”、“門”、“高”という名称を持っていた。残る一つは、北岸の石壁の上に築かれ、また、これらにあわせて25の小砲台も建設された。
第二次アヘン戦争のさなか1859年6月25日、史栄椿提督率いる部隊がここでイギリス軍と激戦を繰り広げた(第一次大沽口防衛戦)。また、1900年には羅栄光提督率いる部隊が義和団と共に八国連合軍に抵抗し反撃を加えるも列強によって占領された。1901年の辛丑条約によって大沽口砲台は取り壊され、現在では南岸の“海”砲台が残るのみとなった。