円明園
円明園は、昔「暢春園」と言われ、明代に万歴帝(14代)の外祖父が「清華園」と名づけた庭園の一角であった。それに煕帝が手を加え(1709年)、さらに雍正帝はここを皇太后の住居とし、特に円明園だけを別に拡張(1725年)、離宮として政務を行ったのが始まりである。その後も乾隆帝も造園を続け、新たに長春園、綺春園が設けられた。
総面積は350万㎡と「イ和園」(「イ」は、巨にオオガイ)より広く、借景技法(他の園内の建物や自然を風景の一つとすること)を凝らした園内には全部で40景の風景があり、その一つ一つに四文字の名称をつけ、額に掲げていた。後に8景増やし48景とするが、眺める人の気持ちがはたらかなければ「景」にはならず、人の「情」に趣をおいた48景の庭園であった。残念ながら、1860年に英仏連合軍によって徹底的に破壊されてしまった、140年ほど前に廃墟にされた遺跡として見るのもよいだろう、乾隆帝がイタリアの宣教師に設計させた壮麗な西洋楼の一部は修復され、公開されている。