古大聖慈寺
古大聖慈寺は成都市東風路に位置し、敷地面積は1.7万㎡を誇り、「震旦一の叢林」「成都一の寺」と称されています。1981年に成都市の重要文化財に指定され、1983年には成都市博物館として開放されました。数多くの著名人によって造られた壁画でその名が広く知られ、古代四川省西部において指折りのお寺として脚光を浴びていました。言い伝えによると成都という土地は、内陸の海に浮かぶ一枚の陸地にあり、町の沈没や地盤移動、水害から成都を護るために、人々は海に繋がる「海眼」と「風水宝地(地相の良い場所)」に大聖慈寺を建造し、成都の安寧と繁栄を永久に保つことができると信じられてきました。これに基づき西暦700年代(唐代の天宝、至徳年)にわたり、大規模な工事が行われました。その後、唐粛宗(李亨)が自ら「大聖慈寺」という4文字を書きのこし、その名が命名されました。そして唐の玄宗皇帝が「勅建大聖慈寺」という看板を授けたこともあり、唐の時代の名僧である三蔵法師がここで戒律を受けたこともあったそうです。絶え間ない増築と、規模の拡大に伴い、現在では96の庭園が整備されています。当時の大聖慈寺は寝室、楼閣、廊下、パゴダ、ホールなど総合するとその部屋数は約8524軒に至ります。
また、唐末期から五代、さらに五代から宋にかけて大聖慈寺は豪華な画家や芸術家により夥しい数の壁画や彫刻画が制作されました。これらの創作が中原辺りの仏教文化の発展と繁栄に大きな影響を与えたといわれています。さらに、お寺の壁には釈迦如来の彫刻画が1215点、天王、明王、神将の彫刻画が262点、仏経変像が114点も存在し、当時「世に冠たる精妙さ」(蘇東坡の言葉)、「世の絶品」と高く評価され、前代未聞の芸術の宝庫と称えられました。大聖慈寺は栄枯盛衰の長い歴史を繰り返し、明清時代になると仏教の信奉を巡る動きが次第に衰え、戦火により焼失した歴史も何度かあります。「大躍進」や「文化大革命」の時には、破壊される被害に見舞われましたが、1978年の改革開放後、初めてお寺に対する修繕が行われ、現在の立派な成都市博物館に変身し、一般公開されるようになりました。
現在一般公開されているのは天王殿、観音殿、大雄宝殿、説法殿、蔵経楼です。唐の時代から立派な建築に魅了されて地元の学者たちが大聖慈寺を訪れていた風潮や趣向が現在も受け継がれています。その建築の美しさや庭園が奥深さは何度見ても人々を飽きさせることがありません。また、大勢の画家や芸術家たちが丹念に造った数々の名壁画には誰もが圧倒され、その目を楽しませてくれます。さらに、お寺の境内には草花が広がり、特にお寺の代表的な花である「芍薬」は当時から風流があり注目されたと分析されています。最後に、唐の時代以来大聖慈寺は多くの著名人の親書の書道、仏教関係の銅像などの貯蔵品が納められ、鑑賞されてきました。他にも昔、文人墨客たちが宴を開き、即興で漢詩を作る場所として機能していました。
今の大聖慈寺は当時の雰囲気が完全に取り戻すことができませんが、訪れた人々のために茶室や将棋室、軽食店などを営み、地域的な活性化を図る重要な場所にもなっています。