大墟古鎮
大墟は桂林から15km離れた南にある古い町で、約1100年前、北宋の時代に町づくりが始まり、時代が進むにつれて益々賑やかな町になりました。特に、明や清の時代に入り、人口の増加に伴って物流はさらに盛んになり、広西北部辺りであらゆる貿易が行われ、広西地区の四大市場の一つとなりました。大墟は昔から陸路、水陸共に交通の便がよく、陸路は広西北部から東西南北に通じることが出来る上、水路にも離江という川に恵まれているので、船で北は湖南省、南は梧州を経由し広東地方まで行けるわけです。中国では昔から‘南船北馬’という言い方が存在し、北方では乗り物として馬が欠かせず、南方では荷物の運搬には船が不可欠です。大墟は側を流れる離江の水運のおかげで、市場として町が成り立っていったのです。
現在、離江沿いに定着した古い町並がおよそ2km続いていますが、その町の地盤がほぼ明、清の時代に築かれ、民の時代の広西北部の風貌を窺わせる建築物が多く残されています。中には比較的規模の大きい広東会館、湖南会館及び四川会館があり、昔の面影を彷彿させる旧建物として保存されています。また700年ほど前の明の時代に造られた万寿橋が完璧に残っており、旧時代の華やかさを示す証として貴重な文物に指定されています。1100年前の宋の時代から何度にも及び改築がなされ、古い街道の軒に並んでいる建物と旧街道に敷かれた少し痛みがかった石畳みがこの華やかさの残る静かな町のロマンを語っています。
今でもこの古い街道を散策すると、昔の風情を彷彿させ、耳をつんざくような商売の掛け声、各店先にきちんと並べられた商品や街道の両端に無造作に並ぶ品物を物色する人々が行き交い、色々な方言で値段交渉をしたり、物を運ぶ様子が脳裏に浮かんできます。こうして想像すると当時、宋の時代の都だった東京(現在の河南省開封市)の町の賑やかさを描いた有名な「清明上河図」が思い出されます。
現在は、昔ほど賑やかな町ではないですが桂林の観光開発のお陰で、大墟もノスタルジックな地と位置付けられ、多くの観光客が訪れるようになりました。地元政府がこの観光ブームに対応して、旧建造物を大切にし、無許可に増築したり、外観の色を変えたりしてはいけないと規制しています。お土産の屋台も復活して、少しずつ昔の町の雰囲気が再現されています。
また、大墟の埠頭で渡し船に乗り、離江を横切って渡ると毛洲島に着きます。毛洲島には農家料理店があり、新鮮な川魚のハヤ、鯰、鯉などの懐かしい田舎料理や、美味しい地鶏の料理が食べることができます。
さらに大墟を行く道の両側には一面イチゴ畑が広がり、毎年2月からイチゴ狩りが始まり、自ら車を出しイチゴ狩りに行く桂林の市民が後を絶ちません。