月嶺古村落
月嶺村は七百年の歴史がある古い村です。村には現在四百七十戸、約千五百人が住んでいます。村の人は全部同じ「唐」と言う名前です。村の人の祖先は唐代の末、地方の乱を鎮圧するために山東省から湖南省の永州まで来ました。南宋の時代に戦争の乱を避けるために一部は灌陽県の月嶺村まで移住してきました。今になって、もう二十八代目になったそうです。現在の古屋は明の末か清の始め頃、十四代目の唐虞琮が自分の六人の息子のために建てたそうです。それぞれは「翠徳堂」、「宏遠堂」、「継美堂」、「多福堂」、「文明堂」、「錫嘏堂」と名前をつけました。家はみんな青煉瓦で造られ、中原の楚の国の建築の風格があります。この村の最も有名なのは村の西側に建てられた「孝儀可風」と言う貞孝石牌坊です。それは清代の道光年間(1834-1839)、村の挙人で、当時の湖南省永興県の知事の唐景涛が皇帝の命令を奉じて、養母の史氏のために建てられたのです。史氏は長年間持病の唐世桐と結婚して間もなく夫が亡くなられて、未亡人になりました。夫のために貞節を守って、死ぬまで結婚せずに、苦労しながらも養子の唐景涛を成人まで育てました。自分もとうとう失明になってしまいました。唐景涛は唐景涛で、母親の期待に背かずに一生懸命に勉強して、挙人の試験に合格して、県知事まで出世しました。地元の人は史氏のことに感動して、朝廷に上奏しました。人々の模範になる史氏を表彰するように皇帝が「孝儀可風」の貞孝石牌坊を建てるように命じました。170年も経った貞孝石牌坊は現在にはまだ完璧に残っています。
石坊は高さ10.2メートル、長さ13.6メートルです。
表には「孝儀可風」という字が彫られています。
裏には「艱貞足式」の字が彫られています。
清代の乾龍年間に建てられた文昌閣と歩月亭です。
清代の乾龍年間に建てられた文昌閣と歩月亭です。
文革の影響はこの桃源郷のような村にも及ぼしてきました。
山賊などを退治するために、村の出入り口に望楼、城壁、トーチカ、射撃口があります。
玄関の柱の台です。
唐辛子味噌を作る石臼です。
散らかしていますが、生活の情緒があります。
都会の子供と違って、ここの子供は勉強するストレスがなく思う存分に遊べます。子供たちがガラスの球を遊んでいるのを見て、子供の頃のことが懐かしかったです。
月嶺村は人材輩出する所です。科挙試験の中で、進士が十二人と挙人が二十三人合格しました。
下の列右から一枚目の額には「大清乾龍庚子科進士唐虞琮」と書いてあります。現在の月嶺村の建物がこの人が建てたのです。上の真ん中の額は「大清道光己亥科挙人唐景涛」と書いてあります。これは月嶺村の人が自慢するものになっています。
月嶺村は棗と石榴の名産地です。