恭城武廟

恭城武廟は「関帝廟」とも言われ、三国時代、蜀の名将・関羽を祭祀するため建てられた廟宇です。明の時代、万歴三十一年(1603年)から建造された後、三回の改装の度に修復され、現在では元のの様子になり、400年余りの歴史を持っています。敷地面積は2100㎡、建築面積は1033㎡で、印山という山の南麓、文廟の右側に位置し、印山の左右に脊梁が一本ずつあります。武廟と文廟は左右に並んで渾然として建っており、二つで一体に成しています。
三国志の関羽は日本でもよく知られていますが、北宋末期から公(真君)と奉じられました。関羽は忠、勇、仁、義などの中華民族の美徳を全て持ち合わせているので、その影響力が時が経つほど大きくなり、最後には関帝聖君と尊称されて、俗に関帝と呼ばれています。仏教では仏法を守る伽藍菩薩と呼ばれて、道教では真君と呼ばれるようになっていきました。明や清の時代から最も尊敬される神のように崇められ、有名な文聖の孔子と並び武聖と呼ばれています。民間の各業界の人々からも正義の神様と福神のように尊敬されています。

文廟と武廟の位置関係から、中華民族の伝統的な理念を知ることができます。左は東、陽の位置で、生命を司っており、目上の位置で、文を尊ぶという意味が示し、右は西、陰の位置で、勢いを削ぎ身分や位置が低く、武を抑える意味を示しています。ただし、文廟と武廟が互いに並び合い、陰陽に適って文武を互いに助け合っています。文と武を共に尊び、文が前で武が後というように、中華民族の文化を体現しています。文廟と武廟が並んで建っているのは、全国でもこの地だけです。
武廟内の幅は32.55mで、奥行き66.8mです。中国風の山式建築で、軒が重なっており、屋根には彩色上絵が書かれた彫刻と塑像が数多く飾られています。表門はなく、西側の脇門から中に入り、中には、演武台、前殿、協天宮、後殿、両脇の殿から構成されてます。北側が建築物の中心部分で、規模が大きく、彩色を施した梁や棟が見え、その勢いは厳かでしめやかさも内包しており、その場に身を置くと、関羽に粛然とした態度で対し、襟を正される気持ちになります。軸の南側には関羽を顕彰するために造られたアーチ型の建物が二つ見えます。石造のほうには「万代瞻仰」、木造の方には「威震華夏」と記されています。この二つの建物の気勢が雄大で、人々に関羽及び中国に広がる関羽文化の歴史的地位を示しているでしょう。

演武台の壁や天井には綺麗な絵画が書かれており、屋根に龍や鳳凰などが彫刻されています。昔は、演武台の床下に36個の水がめが配置され、太鼓を敲いた時の音が水がめから上に反射し天井で共鳴して、音が遠くまで響き渡ります。高さ1.32mで、階段が付いていないので、当時は、やはり武芸が出来ないと登ることができないと考えられていました。
後殿は関羽を祭り拝むところで、ここには関帝の塑像が建てられています。その高さは約2m、強く凛々しい姿をしており、まさに関羽そのもののようです。左右に関平と周倉の塑像が付き添うように建っており、関帝廟が作られて以来、盛んに参拝が行われてきました。特に、毎年旧暦五月十三日(関羽の誕生日)になると、一万人以上の人が参拝に来るので、地元の大イベントとなっています。