漢代の長城
「紀元前121年」酒泉郡が設けられた後に、漢武帝は令居(今の永登)の以西の亭、障、塞を建てはじめた。いわゆる「塞」は長城であり、「亭」と「障」は烽火台であり、大きいのは障と呼ばれ、小さいのは亭と呼ばれる。候官(官職)と候長(官職)から兵士を率いて守備し、彼らは開墾することと辺境を守ることの二重の任務を負った。
西は玉門関の西方から疎勒河の南岸に沿って延々と築かれた漢代の長城。2000年にわたって風触されたため現在残された部分は少なく、玉門関付近で最も保存状態の良い長城を見ることができる。砂と葦や紅柳、胡柳を層にして固め、間に烽火台がつくられた。