大理観光

大理は大理国の栄華と独特な地形と自然の風景が広がる都市で、大自然に囲まれた古の都に舞い降りたような気分にさせられます。標高2000mの高原に広がる青々とした洱海、夕日が万年雪を赤く染める標高4000m蒼山,その麓にそびえる古塔など旅人の心を惹きつけ、大理の自然風景の神髄は、よく「風花雪月」の4文字で表現されます。これは下関の風、上関の花、蒼山の雪、洱海の月、「下関から吹いてきた風が上関の花を撫で、洱海に美しい月が映し出され、月光が蒼山の雪を照らし出す。」何とも言えない風情を生み出します。

大理の人口の約半分はぺー族が占め、大理は昔から茶馬古道の重鎮として、現在も茶馬古道沿線に20余りの村落で生活をしています。大理はお互いに影響を受けながら多彩なペー族文化を創り出してきました。ペー族の伝統的な民族料理、名産である大理石の製品、藍染めのお土産、ペー族独特の祭り「三月街」など、この町の色濃く残る民族文化に触れるのも旅の楽しみとなっています。

大理には大理古城と下関という2つの中心都市がありますが、かつての中心都市である大理古城に多くの見どころが集まっています。また、中国各地にも様々な古城がありますが、大理古城のように長年の歴史と町の雰囲気を留めている場所は数少なく、その歴史的な遺産と爽やかな高原の大自然、独特な民族風情が大理の最大の特徴となっています。

大理は昔から「分献名邦」とよばれ、その歴史は新石器時代まで遡ります。洱海近辺で発掘された遺跡によると、新石器時代からペー族の先祖がこの大理で生活していたと言われています。その後も大理は雲南西部の交通の中枢として、雲南からチベットへ向かう雲南区間の中間に位置している「茶馬古道」を利用して、中国雲南省の西双版納や思茅など著名なお茶の生産地から、西北に向かって現在の大理、麗江、シャングリラを経て、チベットのラサへ至り、ラサからさらに南へ行き、ミャンマー、ネパール、インドまで国を越えた貿易を行われてきました。当時のキャラバンは雲南省からこの山道に沿って、馬を使ってチベットやインドへお茶、塩、絹、陶器を運び、チベットから戻るときに馬、羊毛、チベット薬草などを運んでいました。このことから、この古道が「茶馬古道」と呼ばれるようになったのです。

雲南と大理の歴史を辿ると、まず紀元前109年、漢武帝がこの地を治め、叶榆、云南、邪龙の三県を設置しました。その内の叶榆が現在の大理にあたります。また、ほぼ同じ時期に桂林に始安県が設置されています。8世紀中頃になると、この地に「南詔」という独立国が誕生しました。南詔国は唐との間に軍事同盟を結び、六詔と呼ばれる少数民族六部族を統一し、領地を拡大しました。当時の南詔国は北は成都、東は貴州西部、南はシーサンパンナ、西はミャンマー北部に達し、唐王朝の協力で六詔統一を果たしたので、経済水準も上がり中原文化との交流も盛んになりました。特に、建築、彫刻、絵画面に優れ、その代表として「崇圣寺三塔」「石宝山石窟」「剑川木雕」が挙げられ、あの有名な「南詔中興国史画卷」も当時の作品です。937年には段思平が大理国を建国し、中原の北宋王朝との往来はさらに活発になり、大理国も積極的に漢民族の先進的な文化を学び、各地域で漢字を通用していました。官僚から商人までが競って様々な漢文書類を買い求め、漢字の研究と習得に熱心であったことが分かります。さらに大理国の彫刻と絵画もより一層高い水準に達し、現在残されている大理周辺の寺院彫刻の大多数が大理国時代の傑作とされています。そこから、1254年にモンゴルのフビライ?ハンの攻撃を受けて滅びるまでの500年間、南詔国と大理国は雲南省の政治、文化の中心都市として、また通商貿易の要所として栄え、その後も大理は漢文化を基礎として、高度な民族文明と融合させながらその繁栄を保っていきました。そして近代、大理古城の大理県、下関地域の下関市、それぞれ発展してきた2都市が1983年9月に合併し現在の大理市となり、大理ペー族自治州の首府で歴史を語る遺跡?大理古城とにぎやかな中心市街区の下関に分かれています。